Vol.45
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西村 國彦

HUMAN HISTORY

過当競争が進むなか、武器になるのは専門性。つまり、自分にしかできない仕事で勝負しなくてはならない時代が来ている

さくら共同法律事務所
パートナー/ゴルフジャーナリスト
弁護士

西村 國彦

勉学と卓球に打ち込み、子供時分より〝粘り強さ〟を発揮

西村 國彦
さくら共同法律事務所の代表弁護士・河合弘之氏と談笑する西村氏。中・高・大学の先輩後輩の間柄でもある

弁護士、ゴルフジャーナリスト。西村國彦の名刺には、2つの肩書が記されている。40歳から始めたゴルフに魅了されてからというもの、西村の“戦場”は公私共にゴルフ場となった。バブル崩壊後、相次いだ日本の大型ゴルフ場倒産事件は、ハゲタカ金融業者たちの狩場と化したが、西村は、その法的再建問題に敢然と立ち向かってきた。またプレーヤーとしては、難コースとして名高いニュー・セントアンドリュースゴルフクラブ・ジャパンのクラブチャンピオンに輝いたほどの腕前で、ゴルフジャーナリストとしても健筆をふるう。どちらも“戦いの場”。拳を上げて語る熱血漢ではないが、生来負けず嫌いの西村は「難攻不落に思えることほど燃える」。どんな苦境でも決してあきらめず、粘り強く戦い抜く――西村の真骨頂はここにある。

今はゴルフ一筋ですが、子供の頃から球技が好きなんですよ。僕らの世代だとサッカーはまだメジャーじゃなかったし、やっぱり野球人気。でも僕は、丸刈りがイヤでね、熱中したのは卓球です。室内競技でしょ、夏なんかは日差しを防ぐためにカーテンを締め切るから、それはそれで過酷なスポーツではあったんだけど……。

僕は、父が教員をしていた中・高一貫校である桐朋学園に通いながら、けっこう真面目に勉強にも卓球にも打ち込んでいました。中学2年の時のこと。都内中学校の卓球大会があったのですが、僕は、優勝候補だった3年生を相手に2回戦で惜敗。それが悔しくてねぇ。よほど刺激されたのか、負けず嫌いなのか、その悔しさを翌年まで胸に刻んだ結果、翌年の私学都大会では個人も団体戦も総ナメですよ(笑)。リベンジを果たしたわけです。もう大昔の話だけれど、今でも試合のあった国立競技場の辺りを通ると、厳粛な気持ちになるんです。「志を持って必死にやっているか。途中で投げ出していないか」。そう問われているような気がして。僕の起点はここにあるのでしょう。

始めたら何でも一途にやるというか、粘り強さは子供の頃からありました。加えて団塊の世代です。受験も含め、競争、競争のなかで生きてきたから、「やる以上は勝ちたい」という負けず嫌いな部分が強い。もっとも、性分としては“はにかみ屋”で、できるだけ目立たないように振る舞っていたんですよ。しゃべるのも苦手、講演なんて絶対にできないようなタイプだったのに、今、弁護士としてあちこちで登壇しているんですから妙な感じです(笑)。

西村がパートナーを務める「さくら共同法律事務所」の代表弁護士・河合弘之氏とは、実に55年の付き合いだという。中学から大学まで同窓であり、卓球部では先輩後輩の間柄。西村が弁護士を意識するようになったのは、先輩・河合氏の影響が少なからずある。一貫して学業優秀だった西村は、東大法学部にストレートで進学した。

ものをコツコツ調べたり書くのは得意だけど、僕に営業的センスはないし、酒も飲めず付き合いも悪い。勤め人には向かないだろうと思っていたなか、それでも食えるとしたら弁護士かなぁと。法学部に絞った動機は、あまり褒められたものじゃないんですよ(笑)。

大学に入ってからも、勉強と卓球に打ち込んでいましたが、3年生になった頃から東大闘争が激しくなってきて、講義どころじゃなくなった。法学部から、安田講堂に立てこもった学生が20人もいた時代です。僕は基本ノンポリで、直接的な活動はしなかったけれど、シンパシーを感じていたから影響は受けています。公安に逮捕された連中に接見しに行くとか、面倒を見るとか、弁護士になる前から救援活動的なことをしていました。

司法試験に向けては、同期の仲間たちと勉強会を立ち上げてやったものの、そんな環境でなかなか集中できず、合格したのは4回目のチャレンジ。「大学8年生」の時でした。同年、さすがに生活プレッシャーを感じて受けた国家公務員試験にも合格したのですが、今となれば、この道に進んでつくづくよかった。結局、大学には常人の2倍、8年間在籍して卒業しました。

始めたゴルフを機縁に、「会員とゴルフ場を守る」弁護士として活動

京都での司法修習を終えたあと、西村は明舟法律事務所に入所。当初、神田から市ヶ谷に移転したばかりの先輩・河合弁護士の事務所を頼ったが、「外で少し修業してこい」と紹介された先である。労働事件や学生運動事件を扱う事務所において、西村は学生時代と同様、社会変革のために闘う若者たちの弁護に駆けずり回っていた。

西村 國彦

六価クロム公害事件とか、社会的に大きな事件を取り扱う事務所だったのですが、僕が懸命にやっていたのは警察回り。事務所でも学生運動事件に関与はしていたけれど、僕はちょっと激しくやりすぎて……時を待たずして居心地が悪くなってしまったのです。結局、半年ほどで退所し、河合・竹内法律事務所(現さくら共同法律事務所)に入れてもらったという経緯です。

この頃、河合・竹内が扱う事件の規模は加速度的に大きくなっており、企業再生事件を中心に繁忙さを増していました。僕もリッカーやリッカー不動産などといった会社更生事件、いろんな倒産事件に関与しながら、両弁護士について仕事を学んでいったのです。

そして、最初に担当したのが、奇縁なことにゴルフ場の預託金返還の訴訟でした。その頃は、ゴルフ会員権を買うとか、預託金返還とかは、いわゆる“上流社会の方々”の話だと思っていて、よもや自分がゴルフをするようになるとは想像もしていなかった。一方で、河合弁護士と平和相互銀行事件の絡みでゴルフ場事件に関わるようになり、「仕事をする以上、ゴルフを知らないとだめだ」と、彼が先に始めたんですよ。それで勧められ、始めたわけですが、結局ゴルフの魔力に取りつかれたのは僕だったという話です(笑)。

西村 國彦

西村がゴルフを始めた1980年代後半、それは、日本社会でのゴルフ場をめぐる矛盾が露呈する前夜でもあった。幕開けとなったのは、91年に発覚した茨城カントリークラブ事件。会員限定数をはるかに超える会員を集め、1000億円を調達しておきながらゴルフ場造成ならず、資金流用や乱脈経営で破産に至った事件だ。これを機に、ゴルフビジネスの仕組み自体に疑惑の目が向けられるようになり、以降も、収支悪化でゴルフ場経営会社が突然倒産するということが相次いだ。

バブル経済の時代に高値で売り出されたゴルフ会員権が、崩壊後、ものの見事に泡沫と化した。会員入会時に「預け入れた」預託金の償還時期に入ると、会員たちは「金を返せ」と殺到し、いざこざが噴出。返せない預託金と銀行債務に行き詰まったゴルフ場が次々と潰れていった時代です。当時は“無政府状態”でしたから、会員は法的な保護をされず、預託金を巻き上げられ、さらにはプレー権をも失うといった事態に見舞われていたのです。

僕が最初に突っ込んでいったのは東相模ゴルフクラブの事件。会員たちに突然、破産と競売の知らせが届いたのは92年でした。怒りのなか、競売停止の運動に立ち上がった人たちと共に、会員だった僕も闘いの最前線に。会員2000名以上を組織し、根抵当権を行使した金融機関に対して競売停止を訴え続けた。守りたかったのはプレー権です。その抗議活動を世に問うために、数百人で行った街頭デモは、NHKが1日に3回全国ネットで放送する一大ニュースとなり、大きな反響を呼んだのです。やっぱり影響力が強いですよね。この映像はその後、全国の大手金融機関に対して、ゴルフ場の競売をさせない原動力となりました。

7年間にわたる長い闘いでしたが、結果、破産にもかかわらず、プレー権を確保したまま最終的解決を迎えることができた。そして健全なゴルフ場に再生した、当時としては非常に珍しいケースです。会員の情熱と強い結束があってのこと。「最後の最後まであきらめない」「結束を最大の武器にする」という僕の闘い方の原点でもあります。

ハゲタカ舞い踊るゴルフ場の再建問題。その解決に挑む日々

西村はゴルフ場問題をテーマに闘うスペシャリストとして、数々の案件を扱うようになる。90年代半ばには、預託金問題について「新理論」を提唱。倒産を防ぎ、プレー権を守りながらゴルフ場を再生させるために、預託金返還請求を制約するというものだ。追って民事再生法が施行されたことで主流にはならなかったが、新理論が、預託金問題に対する法曹界の意識変革につながったことは確かである。

西村 國彦

ゴルフ場の再生にいくつか成果を挙げたことで、僕は倒産危機に瀕する大手ゴルフ場側の代理人としても仕事するようになったのですが、常に考えてきたのは会員を大切にすること。あるべきゴルフ場の再生を追求するというスタンスです。法的な解釈でいえば、ゴルフ場が破産したらプレー権も清算すべきとされてきたけれど、それをまともに適用すると社会的パニックになるでしょ。困難な債権債務処理問題も、当事者間の具体的な事情に踏み込み、信義則によって誰にもベストな結論を導く。それが新理論です。

端的な話、「償還約束があっても、返さなくていい場合もある」という理論なので、当初、周囲からは「そんな感情論がとおるわけがない」と言われたものです。でも実際には、条文中心主義で積み重ねられてきた判決のなかにも、信義則に則った判例はたくさんある。そこに志があるのなら、「条文や形式は疑え」ですよ。僕たちは、難局を乗り切るために、法的整理(倒産)なしでゴルフ場を再生できるよう、ゴルフ場勝訴判決を20件取ってきました。

一方、民事再生法ができたことで、プレー権は保障されるようになったものの、別の問題が出てきた。民事再生で情報公開されると、その負債や担保が多すぎて、日本企業が再生に及び腰になり、リスクマネーを出したのは外資系ばかり。ゴルフ場は、いわゆる“ハゲタカ”の練金の場と化したわけです。大手外資はゴルフ場を二束三文で買い集め、合理化し、時を見てその株式を高値で上場させて莫大な利益を手にする。それで、ゴルフ場が生き残ったという見方はあるにせよ、人一倍ゴルフ好きで、拝金主義嫌いの僕にとっては、座視できない事態です。多くが「しょうがない」とあきらめるなか、僕は、さらに闘いに挑むようになりました。

こんな数字がある。2008年の段階で、法的整理が起こったのは、日本のゴルフ場の3分の1近い730以上のコース。そのなか、アコーディア・ゴルフとPGM(パシフィックゴルフマネージメント)という外資ファンド絡みのゴルフ場経営会社が、所有に至った数は実に約250カ所。その多くが、会員や従業員をそっちのけにした財テク劇に終始したという。

ゴルフ場に限らず、グローバルな大資本の容赦ない錬金術の前に、弱者が食い物にされてきた。バブル崩壊後の不動産もそうだし、金融機関もそう。ハゲタカに手玉に取られるのが不愉快で、僕はゴルフ場を舞台に30年近く闘ってきたけど、何度悔しい思いをしてきたことか。ゴルフ場争奪戦において、GS(ゴールドマン・サックス)に屈せず、完全株主会員制のゴルフ場に再生させた「浜野ゴルフクラブ」のような勝利もあったが、もちろん逆がほとんど。法人が高額な会員権を所有するゴルフ場などは、外資はそこに食い込むから、結果、会員が分断されて負ける。そんな煮え湯を飲まされたことも度々です。一度の勝利に、三度のボロ負け。そんな繰り返しでしたねぇ。

最近の大一番は「太平洋クラブ」です。12年、この有名クラブが民事再生申立をしたことは、全国のゴルファーに衝撃を与えました。同社は、申し立てと併せて、アコーディア・ゴルフをスポンサーとする再建案を出したのですが、そうなるとまた合理化され、コースの質低下は必至でした。

この事件は、三井・住友・東急というトッププランドが、裏で談合し、重要な諸情報を開示しないまま会員権を売りまくり、保身のために経営を投げ出したという大倒産事件です。民事再生の申し立てをした日にも、まだ会員募集していたのですが、それを、会員を食い物にするアコーディアに売り渡すという誰が考えてもひどい話でした。僕は反対運動の火付け役として、「太平洋クラブ会員の権利を守る会」を発足させ、「これは許せん」という会員有志と共に立ち上がったのです。

抵当権問題、持ち株会社問題、膨大にかかる費用問題……この闘争は、展望の開けない難問を多く抱えての船出でした。でも、会員団結がもたらした勝利を過去に知る僕には、絶対に引っ繰り返せるという思いがありました。実際、多くの人の知恵と工夫、そしてボランティアパワーで相手の弱点をつき、全面展開していったことで、アコーディアをスポンサーとする再生計画案は債権者集会において否決。なんと、ダブルスコアで再生手続き廃止を勝ち取ったのです。大方の予想を裏切ったこの会員の勝利は、ゴルフ史に残るものだと思っています。

磨き上げた専門性と挑みの精神で、さらに歩を進める

西村 國彦

「できない」「勝てない」と言われると、むしろ燃える。そこから仕事が始まるという感覚が、僕にはあるから

その後、太平洋クラブは闘いの第二幕を迎えるが、マルハンという優良スポンサーの支援を得たことで、会員サイドの完璧な勝利で幕を閉じた。今、新たなる名門として歩み始めている。「業界の大切な節目で、日本のゴルフ場の新しいモデルとなる仕事に携われたことは、弁護士として本当によかった」。西村自身にとっても、一つの集大成となった。

言うまでもなく、スポンサー探しは非常に重要な仕事です。実のところ今回も、上場企業やお金持ち企業は、GSと闘うのはリスクが大きいと、どこも手を挙げなかった。そんななか、出合えたのがマルハンでした。

同社が持つ事業理念や社会貢献ぶりから考えて、僕は、太平洋クラブの救世主はここしかないと直観的に感じたのです。創業者である韓昌祐会長の志は高く、僕らの主張に共鳴してくださった。「ゴルフ場をよくするために」と、社内の反対を押し切って支援に立つことを英断、300億円近いスポンサー金額を投下してくれました。継続会員とWin-Winの関係を構築することもでき、その結果、新しいゴルフ場経営の道が開かれたのです。

奇跡的な勝利ではありましたが、闘い方の根っこはシンプルなんですよ。「仲間うちではケンカせず、共通の敵に対して団結する」「最後の最後まであきらめない」。単純でしょう。ただ、この2つの単純なことが、今の日本人は得意じゃない。「やってもダメでしょう」「何が得なの?」となってしまう。弁護士であっても通説的な発想をする人が多く、この太平洋クラブのような案件になると「勝てません。あきらめましょう」となる。僕は逆で、「できない」と言われると燃えるというか、そこから仕事が始まるという感覚があるんです。営業もそうでしょ。売りにいって、断られるところから営業が始まるっていうじゃないですか。どんな状況にあっても、義があるのなら、僕はいつもファイティングポーズを取っていたいと思うのです。

法廷のみならず、西村はプレーヤーとしても闘い続けてきた。冒頭で触れたように、クラブチャンピオンのタイトルを獲得し、出場そのものが難しい日本シニア選手権にも参戦している。「競技ゴルフという“虎の尾”を踏んでしまい、その苦しみと楽しみにはまっている」と西村は笑う。ゴルフ場のあるべき姿を提言する著書や論文も、数多発表してきた。ゴルフ一筋。西村の弁護士人生は、まさにスペシャリティを磨き上げてきた軌跡でもある。

毎年、2000人近くが弁護士になっているわけでしょ。それは、自分にしかできない仕事、つまり専門性で勝負しなきゃならない時代がやって来たということです。アメリカなどはとっくにそうで、例えば、交通事故専門の弁護士ならば、救急車を追いかけて、被害者に「委任状ください。私に任せればこれだけ取れます」なんてやる。事件を追いかけるというか、事件をつくる時代に、今入っています。

弁護士を題材にした『レインメーカー』というアメリカ映画がありますが、「雨を降らせて傘を売る」仕事スタイルが描かれている。日本だとマッチポンプだといわれるかもしれないけど。実際、テレビCMと同じ手法で、「コンプライアンス問題を軽視すると危険ですよ」などと言って、日本の大型法律事務所も依頼を呼び込んでいるわけで、ほかのサービス業と同様、弁護士も完全にその世界になっていくでしょう。過当競争は弁護士の疲弊をもたらす部分もありますが、でも逆に、専門性や個性を持つ弁護士には、チャンスとなる時代です。考えようによっては、面白いじゃないですか。

もう一つは、人としての魅力。弁護士って、魅力がないと依頼者はついてきませんよ。一見、僕はゴルフ場の大きな事件ばかりをやっているように見えるんですけど、今も「お金じゃない」という仕事をけっこう好むところがある。子供を抱えて離婚の相談に来た依頼者のために、ボランティア的に必死で応援することもあります。やっぱり、法的社会的に弱い人たちを助けることが、僕の本分だから。一つ一つの仕事と丁寧に向き合っていけば、必ず人は見ていてくれるし、そこから舞台が広がっていくのです。

幸い僕は、「ゴルフ場問題なら西村」と言っていただけるようになった。歴史に残る事案になるであろう先述の太平洋クラブに、その新たな始動に貢献できたことは弁護士として誇りに思っています。ここで得た経験をきちんと検証し、教訓や自信に変えて、僕はまた、次に来たる難題に挑んでいきたい。安定を望まず、どこかバランスの取れていない破滅型弁護士かもしれないけれど(笑)、それが僕の生き方なので。

※本文中敬称略