Vol.66
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津久井 進

HUMAN HISTORY

どん底からのスタートでも、先にある未来を見つめて〝導き役〟を全うする。そこに立てば、弁護士の仕事は本当に楽しいと思う

弁護士法人
芦屋西宮市民法律事務所
弁護士

津久井 進

自分の思いや考えを貫ける職業として、「弁護士」を選択

津久井進が弁護士としてスタートラインについた1995年は、まさしく阪神・淡路大震災が発生した年である。発生時は司法修習でかの地を離れていたが、実家は神戸市にあり、自身も震災経験者となった。“1年生弁護士”として復興支援を行ったのを起点に、津久井は、その後も日本各地を襲う災害の被災者支援に奔走し続けている。道のりにおける様々な場面で法の不備を体感した津久井は、その不備を正し、時代に則した法制度の改善にも尽力。民事・刑事・家事など幅広い分野で手腕を発揮しながらも、被災地・被災者支援は今やライフワークとなっている。弁護士会はもとより、災害関係や市民活動などで多くの役職に就く日々はハードだが、津久井の胸には「自分にしかできない役割を果たす」喜びと誇りが刻まれている。

生まれは名古屋市ですが、神戸に落ち着くまでは、父の転勤に伴ってほぼ3年周期で動いていたんですよ。転校の繰り返しで、中学生時代に至っては1年ごと。中1の時に通った埼玉の中学校では丸刈りだったのが、転校した名古屋ではリーゼントだらけだったから、僕も髪を伸ばし始めたところ、次はまた丸刈りが校則の神戸の学校へと、まぁ忙しい(笑)。これは一つの例だけれど、環境がしょっちゅう変わったことで適応能力は養われましたね。だから僕は、どんな場に対しても人に対しても、抵抗感というものがまったくない。転校自体はイヤでしたが、災害支援で方々飛び回っている今からすれば、これはいい訓練になりました。

高校受験も転校してから事情が違いました。当時、愛知県の公立高校の受験は3科目だったんですけど、神戸に来たら9科目。驚きましたが、僕はもともと一点集中タイプではなく、マルチを好むキャラなので、かえって向いていたように思います。すんなり進学校である長田高校に入学することができました。思えば、中・高の部活もバスケ、卓球、水泳といろいろで、何でもやりたがるところがあるんですよ。

級友に担がれて生徒会長になったのは高校2年の時。面白半分で立候補したものの、役目を授かった以上は「応えなければ」と改心。それこそ自由とは何か、自治とは何かをにわか勉強して、近所の公園で演説の練習をしたりね。けっこう真面目でしょう(笑)。

記憶に残っているのは、模試の一件。長田高校は「模試をやらない」校風だったのに、ある時、校長が代わったのを機に実施されることになった。同級生たちの後押しを受けて「自由こそが我が校のウリではないか!」と校長に談判したものです。僕自身が自由を束縛する決まり事に不条理を感じたこともありますが、担ぎ上げられるとすごく頑張っちゃうタイプで、子供の頃からずっとそう。生徒会長や弁護士はその延長線上にあるのかもしれません。

津久井 進

繰り返した転校は「やはりイヤだった」から、勢い、津久井は転勤のない職業に就きたいと考えていた。自営業か公務員、あるいは資格商売か。そのなかで、自分が「こうだ」と決めたことを思いどおりに貫ける職業として浮上したのが弁護士だった。他の選択として公認会計士の資格取得も頭にあったそうだが、生徒会長の経験からも影響を受けたのだろう。津久井は神戸大学の法学部に歩を進めた。

「よし、勉強だ!」と思って、大学に入ってすぐ予備校に通ったんです。でも、この段階から勉強してストレートに弁護士になった人ってほとんどいなくて、僕もご多分に漏れず。1年の秋頃には飽きちゃって、せっせと励んでいたのは、浜学園という中学受験指導を行う塾の講師のアルバイトです。当時はバブルでしたから、車を買いたいとか、彼女と遊びたいとか、そんな気持ちが正直な動機。一方で、僕は塾で成績下位クラスを担当し、成績が伸びずに悩む子たちを「いかにして持ち上げるか」にやりがいを感じるようにもなっていました。結局、大学にはろくに行かずでしたね。

稼いだお金で車を買うのもつまらない、予備校の学費に充てて有効活用しようと発起したのは2年の冬頃でした。ゼミやサークルだけは顔を出し、あとは複数の予備校をかけ持ちしてエンジン全開です。勉強に没頭して、3年の時に初チャレンジした司法試験では「すげえ俺」と思うくらい高揚しましたが、あえなくアウト。興奮しすぎて空回りでした(笑)。

で、翌年もさらに頑張ったんですけど、今度は何と、勉強しすぎて願書の提出期限を忘れるというヘマをやらかした。情けなくて……さすがに落ち込みましたよ。でもまぁ、「次年度に向けて早くスタートが切れたんだ!」と自分に言い聞かせ、3回目の受験勉強は“落ち着いて”やり直しました。合格したのは大学5年の時。受験勉強3回、受験回数2回というのが、僕の“記録”です(笑)。

阪神・淡路大震災によって導かれた〝災害弁護士〟への道

95年、司法修習を終えようとしていた矢先に阪神・淡路大震災が発生。当時、司法研修所の和光寮(埼玉県)で暮らしていた津久井は、テレビ映像を通じてその惨状を目にした。時間を追うごとに「どんどんひどい状態になっていく」様に居ても立ってもいられなくなった津久井は、すぐに行動を起こす。司法研修所に「被災地にボランティアに行きたい」旨を申し出て、かつ研修所や寮で、47期の仲間にボランティア参加を呼びかけた。

僕は覚えていないんですけど、テレビを見ながら「俺の弁護士人生、これで変わるわ」と口にしていたらしいです。実際、阪神・淡路大震災によって進む道が定まりました。震災がなかったら、今のような活動はしていないと思いますから。

同期である村尾龍雄弁護士と一緒に「ボランティアに行きましょう」運動を始め、研修所や寮の掲示板にチラシを張るなどして、約650人の同期生に声をかけました。けっこう反響が大きく、続報を掲示していたのですが、3回目で発禁処分を受けてしまった。「法律相談をすれば被災者の役に立てる」と書いたことがまずかった。「修習生による法律相談は弁護士法違反である」というのが研修所側の見解で、今になって思えばもっともな話なんですけど、緊急事態でしょう。こっちは完全にギアがトップに入っているから、頭に来るやら不条理を感じるやらで。

ならば、個人として一般的なボランティア活動をするぶんにはいいだろうと。それでも「旅行届けを出すように」と注文をつけられ……結局は振り切るかたちで、研修所の承認を得ないまま被災地に入りました。ボランティアに手を挙げていた人たちの一部はやめちゃったけれど、それでも九十数名の仲間が動いてくれたんですよ。

さすがに法律相談はできず、現場では焚き出しをやったり薪割りをしたり。そうなると、元気な大学生や気が利く人のほうがいい働きをしますからね、息巻いていたわりには大したことができず、無力感や劣等感に苛まれました。ただ“法律家の卵”として、少しでも被災者の話し相手になれればと思い、避難所を回りました。驚いたのは、普段なら法律に縁などないような人から、例えば「兄ちゃん、優先借地権って知ってるか?」と逆に教えられたこと。つまり、被災地の先輩弁護士たちがあちこちで展開していた法律相談の成果が隅々まで浸透していたわけ。弁護士の力ってすごいな、こんなふうに動くんだというのを目の当たりにし、改めて気持ちが引き締まりましたね。

津久井 進
津久井氏の著書・および共著。『Q&A被災者生活再建支援法』(商事法務)、『大災害と法』(岩波新書)、『災害復興とそのミッション』(クリエイツかもがわ)ほか多数

95年4月、津久井は神戸海都法律事務所で弁護士としてのスタートを切った。小規模ながら国や大企業の事件を扱い、一般民事なども幅広くカバーする同事務所は、「いろんなことをやりたい」津久井が選び絞った就職先だ。ボランティア活動を通じて「一日も早く弁護士として仕事がしたい」という思いを強くしていた津久井は、「最初からアドレナリン出まくりでした」と当時を振り返る。

実質、見習い期間なしで、僕は入所した日から被災者の法律相談担当として働きました。複数の委員会にも入り、多くの時間を割いていましたが、僕がそういう勝手なことをしていても、ボスたちは温かく見守ってくれました。当時としては珍しかった会社更生事件など、事務所で様々なことを勉強させてもらいながら、やはり多く関与したのは阪神・淡路大震災に伴って発生した事件です。

なかでも強く印象に残っているのは、洲本ガス事件。地中に埋められていた都市ガス管が震災で破断し、漏れたガスによって家族全員が一酸化炭素中毒に陥った事件で、僕は一人生き残った子供の代理人を務めたんです。被告側の洲本ガスは「自分たちも被害者だ」と主張していましたが、最終的には十分な被害救済を得るかたちで和解となりました。防ぎようのない自然災害によって、被災地の人も企業も莫大な損害を被ったわけで、その損害を誰がどう分担していくべきなのか。この事件だけじゃないですが、調整しながら妥当な結論を出していくことは難しく、非常に考えさせられた事件でした。

また、時にはこんなケースも。震災発生時に「自分だけ先に逃げた夫」に愛想を尽かし、離婚事件に至ったという話とかね。非常時ゆえに起きた事件というより、平時からあるものが震災によって炙り出された……そんな感覚を覚えた事件も少なくありません。圧倒的に多かったのは借地借家問題の相談でしたが、ほかにも震災詐欺事件や廃棄物の違法投棄問題など、実に様々な事件にかかわってきました。まだ若かった僕には、気持ち的にもけっこう重かったけれど、それが当たり前だと思っていたんです。一般の事件にずっと携わってきた弁護士が、もし突然に災害の事件を担当したならば、すごく特殊に感じるでしょうが、僕の場合は最初からイレギュラーケースがデフォルト(初期値)。そういう意味では、鍛えられたと思いますね。

災害復興の制度改善や被災者中心の法的支援に全力を注ぐ

歳月の流れに伴い、災害復興支援にかかわる弁護士は減少したが、津久井は求められる役割に応え続け、活動を“しつこく”つなげてきた。2001年からは「阪神・淡路まちづくり支援機構」(現近畿災害対策まちづくり支援機構)の事務局長に就き、翌年には弁護士法人芦屋西宮市民法律事務所を設立、その足場を固め広げた。津久井自身が大きく成長した時期でもある。

阪神・淡路まちづくり支援機構は、被災地における市民のまちづくりを支援するNPOで、専門家6職種、9団体で設立されました。まちづくり支援って、単一の専門分野で対応できるものじゃないでしょう。法律をベースにしつつも建築、登記、測量、税務などといった様々な職能の連携なしには進められません。僕は、機構を通じて阪神魚崎市場の再建計画のチームに加わったのですが、専門職能の連携の重要性を目の当たりにしました。そして、僕の役割はほんの一部ではあったけれど、合意形成の場で羅針盤の働きをする弁護士の力はやはり大きいということも実感。新鮮な経験でしたね。

僕のエポックは30代後半を迎えた頃でした。地元で起きたJR福知山線脱線事故にかかわったこと、これも大きい。間近で起きた大惨事なのだから何とかしなければと、事故が起きた直後から弁護士会で被害者支援の勉強会を開き、無料相談窓口を設置するよう働きかけをし、様々な支援団体をつなぐなど、環境づくりから取り組んできました。弁護団の活動のメインは遺族の賠償請求になるわけですが、僕の活動は気がつけば、助かった負傷者がしばしば抱えるサバイバーズ・ギルトや、遺族の義憤に寄り添うことが主になっていました。

その過程で身に染みてわかったのは、人が求めている解決のかたちは「一人ひとり違う」ということ。同じ遺族でも、法的責任を求める人もいれば、真実を明らかにする社会的責任を求める人もいる。そもそも「被害者」「被災者」と十把一絡げにするのが乱暴な話なんですよ。僕はこの時期に、一人ひとりを大事にする対応が、実は事件解決の早道になることを知ったのです。そして、関係する法律制度の不備を正さなければ、より多くの解決を望めないということも。

以降、各地での講演や書籍出版など、津久井の活動は全国区へと広がりを見せる。07年からは、日弁連内に立ち上がった災害復興支援委員会に参加し、法改正にも臨んだ。最初に取り組んだのは「罹災都市法(罹災都市借地借家臨時処理法)」の改正だ。津久井は前述の言葉どおり、被災者支援の経験とそこで得られた知見をもとに、法律制度の改善に挑み始めたのである。

阪神・淡路大震災では約25万棟が被災し、大勢の人々が途方に暮れるような借地借家の問題が多発しました。この時、光が差すように報じられたのが罹災都市法の適用です。確かに、弱者救済という一面があるように思えるのですが、この法律は戦災復興の制度で、土地価格が高騰した現代都市に適用するには無理があったのです。解釈の相違から裁判所に多くの係争が持ち込まれるなど、負の側面ばかりが目立った。僕にしても、再建より金銭示談に奔走した苦い経験があります。日本で次々に起きる地震を思えば、罹災都市法は改善しなければならない。それが被災地の弁護士の総意でした。

日弁連の災害復興支援委員会では勉強会を開き、全国から集まった弁護士が問題点を一から討議し、僕も論文やブログを書いて地道に問題提起を続けてきました。そして罹災法研究会が発足し、いよいよ改正のあり方を考えようとしていた矢先、東日本大震災が発生したのです。研究会は休止になってしまったけれど、学んできたことは無駄にならなかった。研究会での討議をもとに罹災都市法の不適用を訴えて、実際、3.11では不適用が正式決定されましたから。

同時に、罹災都市法の改正に向けた具体的な議論が再開されることになり、最終的に法案がまとまったのは5年前。追って罹災都市法は廃止され、代わりに次なる大災害に備える仕組みが誕生しました。まさに、為せば成る。あきらめずに訴え続け、働きかけ続けていれば、いつか必ず実を結ぶということ。適用された法律の問題に直に触れ、改正を働きかけ、その検討作業に携わり、公の場で意見を交わし、そして国会で成立させるまでの一連の過程にかかわれたことは、すごく貴重な体験でした。だから今、被災地に行って、法律の狭間に苦しむ声や問題に触れた時には、「今は無理でも聞き届けたことは無駄にしませんから。解決まで一緒に頑張りましょう」という言葉をかけることができるんです。

得てきた経験や知見を未来につなぐことを使命に、奔走する日々

津久井 進
芦屋西宮市民法律事務所の陣容は、弁護士8名、事務局スタッフ9名。被災地支援活動に多くの時間を使う津久井弁護士だが、「所内メンバーの誰よりも多くの事件を担当しています」と胸を張る

東日本大震災では、津久井は災害復興支援委員会の副委員長として支援にあたった。言うまでもなく、災害時には後方支援も重要になる。阪神の時は、大阪弁護士会が災害に関連する法律のQ&A集をわずか1週間で作成し、それをもとに、神戸の弁護士たちがいち早く相談業務に臨めたという経緯がある。その

現場を知る津久井は、3.11でも同様の取り組みをしようと動いたが、日弁連の動きが鈍く、しばらくは「ケンカばかりしていた」。

混沌としている時期は難しいから、「やるなら任意で」と言われ……「じゃあ勝手にやります」と。何だか修習生時代と同じような話ですね(笑)。すぐさまメーリングリストを立ち上げ、被災地の弁護士のために情報共有の場をつくったのですが、それは阪神以降に積んできたノウハウや知恵があったからできたこと。メーリングリストには多くの会員が集まり、2000人は超えました。仲間もできました。ここから生まれた活動も多いんですよ。

そして、震災の2週間後には日弁連として災害研修もやっています。会場は東京でしたが、予想を大きく超えて集まった参加者を前に、思いの丈をぶつけました。この時、僕が最後に強調したのは「忘れないでください」です。というのは、“その時”は熱があっても、歳月が経つと得てして世間は忘れてしまう。今年も9月に北海道胆振東部地震が発生しましたが、その前には大阪北部地震や西日本豪雨があったわけですよね。でも、次の災害が起きると前の災害の記憶が押しやられていく。僕は「上書き消去現象」と呼んでいるんですけど、大きな問題です。忘れられること自体が二次被害になるから。だから僕は、折々で「忘れないで」を訴えるようにしているんです。

また、日弁連からは3.11の法律相談事例集も発刊しました。震災発生後に全国的に展開された4万件を超える無料法律相談のなかから、1000件を抽出したもので、被災者の生の声を伝える貴重な資料です。事実を多くの人に知ってもらうことは重要で、それが今後の復興政策や支援活動に役立っていくのです。実際、これを持って国会議員や関係省庁に働きかけをしたことで、被災ローン減免制度ができたり、相続放棄の熟慮期間が延長されたりなど、実績が出ています。いわゆるロビイングですね。弁護士の仕事は法廷に行くことだけじゃなく、政策決定に影響を与える働きかけをするのも一つの“本業”。弁護士法にも「法律制度の改善に努めなければならない」とちゃんと書いてある。僕はそこに自負心を持っているし、弁護士の役割があると信じているんですよ。

災害関係で名が立つ津久井だが、当然のことながら通常の弁護士業務もあるわけで、その日々は実に多忙だ。事務所内での事件受任数や、抱える顧問先数も筆頭である。「気持ち的には5対5といった感じ。自由にさせてもらっているぶん、ちゃんと稼ぎも出していますよ(笑)」。

災害関係の仲間にしても、普段はそれぞれ持ち場があって、災害ばかりやっている弁護士はごく少数です。むしろ二刀流が両者を循環させ、強みになっている部分がありますね。僕は管財事件がけっこう多いんですけど、破産法ってつまりは危機管理でしょう。その場その場の的確な判断、実行が肝要になります。スキルアップの王道は法律を学び、技術を磨くことでしょうが、僕の場合は危機管理を体験してきているので、とても馴染みやすい。的確な状況判断をし、目的を達するために、法律だけでなく周辺の事象もミックスして解決に至らせるプロセスは、災害関係でやっていることと非常に似ているから。そういう全体を見るバランス感覚は養われてきたし、法律実務に生きていると思いますね。

事件というのは、解決後に関係者のみんなが「よかった」と感じ、かつ、それを鳥の目で見た時に、全体的なバランスが取れているのがいい。市民感覚を大事にしている僕としては、勝ちすぎず、負けすぎずを狙う感じでしょうか。もっとも、今やっている原発の賠償訴訟などは、白黒をはっきりつける戦いですので、また違った醍醐味があります。たくさんの事件を受けているけれど、そうやって自分なりにメリハリをつけて、かつ楽しんでやっているつもりです。

そう、根源にあるのは楽しさ。災害弁護士の合言葉に「明るく!楽しく!しつこく!」というフレーズがあるんですよ。弁護士って人生に危機や不幸が訪れた時に登場するイメージがあるけれど、逆に考えれば“どん底”からスタートするわけで、その先は上がっていくしかないのです。離婚や破産にしても、それをステップに次の人生が始まるのですから、未来への導き役と捉えれば、弁護士の仕事は本当に楽しいと思うのです。

「社会や人のために役立ちたい」。弁護士には、そんな初心が必ずあるでしょう。忘れたくないですよね。忙殺されると近視眼になったり、あるいは老眼になると視野が曇ったりするから、“初心”って視界をクリアにする大事なメガネのようなものだと思うんですよ。何かエマージェンシーが起きた時や、弁護士にしかできないことに遭遇した時は、少しでもいいから初心や持てる力を興してほしいと思う。そうすると、「弁護士になってよかった」と冥利に尽きる瞬間を味わうことができます。そして、その感覚は本業にもフィードバックされ、仕事の頑張りにもつながります。何も災害に限った話ではなく、本業以外に何か「役に立つ」と心から言えるものを持っていれば、弁護士人生は必ず豊かなものになると思いますね。

※本文中敬称略
※本取材および撮影は、兵庫県西宮市の弁護士法人芦屋西宮市民法律事務所で行われた。